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 江戸時代中期の元文年間(一七三六〜一七四〇年)陽柳法師により創建せれたと伝えられています。現在の本堂は、江戸時代後期の文化十年(一八一三年)に建立されました。本尊の阿弥陀如来立像は、江戸時代に制作され、高さ六一・五㎝の寄木造りです。なお当寺には江戸時代後期の天明二年(一七八二年)に起こった農民一揆の「千原騒動」の指導者、土井忠兵衛の墓があります。墓には忠兵衛の威徳を讃え、「その真心は末の世のいしふみに咲く、うもれ木の花」という詩が刻まれています。毎年一月九日には忠兵衛を偲んで法要を行っています。
 

土井忠兵衛
没年:天明4.2.8(1784.3.28)
生年:生年不詳
 

天明2(1782)年の泉州千原騒動の首謀者のひとり。和泉国大鳥郡富木村(大阪府高石市)の生まれ。天明2年7月、凶作のために年貢減免を求めて新家村勘七、土生村了意らと協議して一橋領地の村々に集会を呼びかけて決起し、同領の掛屋を兼ねていた千原村庄屋川上左助宅を打ちこわしたが、8月堺奉行に捕らえられた。翌3年9月遠島処分を受け、4年4月に遠島される予定であったが、その前に大坂入牢中に死去した。楷定寺の過去帳によると遺骸は村に帰らなかったと伝える。明治37(1904)年、村人によって建碑され、法要が営まれた。

<参考文献>森杉夫「千原騒動について」(『高石市郷土史研究紀要』4,5号)


 
 

 

 
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